小澤俊夫です。 今日は、図書館の問題を中心に活動してらっしゃる方々に呼ばれました。 図書館には昔話の本をたくさん入れると思うんだけど、正しい昔話を入れてもらいたいってい うことを言いたいわけです。僕が今日任されている課題は、昔話とはそもそもどういうものなの かっていうことをわかってもらうことだと思っています。 (座ると皆さんの顔が見えないな。 やっぱりお話は、語り手と同じで顔が見えないとしゃべれないですよね。 立って話しましょう。) 昔話の語り口について ◆昔話は創作文学ではない 始めに僕の方で質問させてもらうけど、「昔話はどこにありますか」って聞いたら、皆さん何を思 い浮べますか? 昔話ってどこにあります?「絵本に書いてあります」とか、「昔話集に出てきます」とか、それこ そ「図書館に行けば置いてあります」と思ってるかもしれないけど、実はそうじゃないんだよね。 僕ら昔話研究者は、しじゅう田舎に行っておじいちゃんおばあちゃんから話を聞いてくるわけだけど そういう経験からすると、昔話が本当にあるのは、それが語られている時間の間だけなんです。 “昔話は、語られている時間の間にだけ存在する”ぜひ覚えておいてください。 ということは、語り終わったら消えちゃう、というものです。 本に書いてあるじゃないか、って言うかもしれませんが、それは、消えていく昔話の一つを、誰かが 文章にして、活字にしたにすぎない。本当に昔話があるのは、語られている間だけです。 と言うことはどういうことかって言うとね、耳で聞いてきたでしょ、語られてきたと言うことは、耳 で聞いてきたと言うこと。耳で聞くと言うことは、文章が簡単明瞭じゃないと、だめだよね。 そこを言いたいわけです。“昔話は、簡単明瞭である” でも文章って言うと、どうしても、書かれたものと思われちゃうので、僕は使わない。語り口という 言い方をします。“昔話は簡単明瞭な語り口をもっている”ということです。 それが実際昔話絵本になったり、活字になったりしますと どうしても簡単明瞭じゃなくなっちゃ うんです。昔話を絵本にしたり、あるいは本にしたりするのは誰がやってるかというと、主に児童文学者がやってんだね、ほとんど。児童文学者は普段何をやってるかといえば、創作しているわけ。石井桃子さんにしろ、松谷みよ子さんにしろ、創作してるわけ。創作っていうのは、読まれることを期待しています。そうじゃない?後で出版しようとしてるんだもの。出版するってことは読まれることを期待してます。文章の表現も、読まれることを期待した文章になっています。 創作の文学っていうのは、それに慣れているもんだから、昔話を絵本にしたり、本にするときにも 同じように考えてしまう。表現創作文学風にしてしまう。 それは間違い。昔話は、創作文学ではありません。 僕は、昔ばなし研究者ですからそこをはっきりしときます。 |