さっきの「馬方山姥」も思い出してよ。あの話で一番すばらしいのは、なんてったって馬が三本足になっても平気で走っていたってとこでしょう。性能は全然落ちていないじゃないですか。あれはなぜ可能だったのか、馬はなぜ二本足、三本足で走れたのか?って。
僕ら理論やっている人間には、とても難しい問題。でもできるんです。案外簡単なんですよ。
皆さん、頭の中で切り紙細工で馬の形作ってくんない。横向きにしといて、馬の足一本はさみで切ってみてくれない?足三本になったよね、だけど馬のからだ全体は崩れてないんじゃない。だから走れたんです。簡単でしょ。
この説が正しいのはすぐに証明できるの。逆にね、あの太い肉のある馬の足を一本切ってご覧なさい。絶対に立ってないでしょ。そしたら走れないよ、だから肉体のある奥行きのある馬としては語ってない。そうじゃなくて、今みなさんの頭の中にある切り紙細工のように語っているということです。
と言うことは図形的に語っているということです。平面的に語ってるということ。
平面性、昔話の平面性。
皆さん今、聞きながら「眉唾だ!」と思って聞いてるでしょ。大丈夫です。
僕ついこの間、EUヨーロッパ連合の文化祭がありましてね。メルヒェンがテーマで、講演しにドイツに行ってきたんですよ。その時この話をドイツで講演したんです。そしたらとても驚かれました。学者たちがみんな目を丸くしてました。
ひとつにはね、知っているんです。平面性っていることは。
それをね、うまく「馬方山姥」と(もちろん馬方なんて知らないんですけど)「白雪姫」と結びつける、そういうことをやってないのです。そして白雪姫がなんで三回死んで三回生き返ったのかっていうことはね、説明したらやっとわかったって言ってました。眉唾ではありません。
で、そういう平面的、図形的語り方で「白雪姫」と「どうもとこうも」と「馬方やまんば 」はできていたってことなんです。
それはグリムが喉からリンゴがはずれたっていうところをを残してくれていたから今の発見があるわけです。王子とのキスによって、とされていたら今の発見は全然ありません。
日本とドイツが共通だって言えません。そういうことなんです。だから語り口って大事なんです。壊さないでくれよって言いたい。
語り口の話はそれくらいでやめましょう。これはほんとは皆さんに勉強してもらいたいです。
いいもの選んでほしいです。ディズニーなんか選ばないでください。図書館の充実考えたら、建物大事、管理も大事だけど何を選ぶかが大事なんです。何を選んでおいとくか、子どもたちのために。そのために僕お話しているわけです。

どうぞいいもの選んでください。そして日本の昔話についてもね。さっき最初に言ったように、児童文学者たちがさんざん手を入れてます。入れすぎてます。昔話でなくなっています。残念ながら。
たとえば石井桃子先生、創作はすばらしいし、僕は個人的にも知っているし、尊敬する方ですけど、昔話の再話は文学になりすぎている。完全に文学になっちゃう。たとえば「一寸法師」なんか見てごらんなさい。「タンポポ横町つくしのはずれ」なんて、そんなもん昔話には出てこないよ。そんなきれいな場面ないですよ。昔話ってもっとごつごつしたきれいさなんだよね。それがなくなっちゃうわけです。
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