ある日のことむっくり起き上がって、町へ出かけていって、鳩と提灯を買って帰ってきた。
夜になるとその鳩と提灯を持って、隣の長者の家の松の木によじ登って大声で叫んだ。
「長者よ、よく聞け。我こそは鎮守の森の神様である。今夜はおまえの家の家運を預言しにきた」長者は、夜中に大きな声が聞こえてきたもんだから、庭に出てみた。
そしたら真っ暗い中から、声だけが聞こえてきた。「おまえの家の一人娘に、隣の寝太郎を婿にとらなければおまえの家の家運はたちまち傾くであろう。良いかわかったか、では、わしは鎮守の森に帰るぞ」と言って、提灯に火をつけて、鳩の足に結びつけて、ぱっと離した。
そしたら「帰るぞ」と言ったとたんに、火がシュ―ッと鎮守の森の方へ飛んでったもんだから、長者はすっかり本気にしてしまった。
翌朝起きると一番に寝太郎のところへ行った。
寝太郎はまだ寝ていた。たたき起こして、「寝てる場合じゃねえ、鎮守の森の神様のご命令だから、ぜひ家の一人娘の婿になってくれ」「じゃあしょうがない、婿になってやるか」って寝太郎は、長者の家の婿になった っていう話なんです。

この話を聞くとね、大人はだいたい悪い話だっていうんだよ。人だましているから。だましているから悪い話というふうに受け取るんですよ。
でもどうですか?人間生きていく上で、ちょっとした悪智恵なんてみんな使うじゃないですか、嘘も方便って言葉もあるし、まじめ・勤勉と言われた人もたまにはさぼることもあるんじゃないですか?人間っていろんな面がありますよね。悪智恵って気にしないでください。悪智恵も智恵のうち、悪智恵の悪をかっこに入れてください。どうですか?悪智恵も智恵の一種。
昔話って言うのは、さっきから言ってるように極端が好きですから、悪智恵をうんと拡大してみせるわけ。そうやって面白くする。ですから悪智恵も智恵の一種と考えてみてください。
そうすると、今の話からメッセージが二つ読み取れるのね。
一つは「あの寝太郎は一生寝ていたわけではない、途中で起きた」
もうひとつは、「あの寝太郎ははじめのうちたっぷり寝ていたから、後でいい知恵が出せた」
どうですか?自分の若い時を思い出して、両方とも当たってると思わない?教室に入るとつい眠くなった。なんてみんな経験あるんじゃないですか?うちへ帰って、教科書前にしたらつい眠くなった。学校さぼったとかね。でも若いときにそうやってた人が、三十、四十になっても寝てるかって言うと、寝てないんじゃないですか。今日は起きている人たちばかりだけど。
人間って面白いんだよね、一度自分が起きてしまうと、自分がかつて寝てたこと忘れるんです。
特に親になると忘れるね。学校の先生になるともっと忘れる。だから親で学校の先生だったら100パーセント忘れるね。僕は自分が、親で学校の先生だから自分のこと言ってるんだけど。
考えてみたら、三十、四十の親になって忘れるのも無理ないよね。だって、もう二十年もたってるわけでしょう。時効とも言えるし、その人の立場が違うよね。親とか先生とか責任があるしね、教育とか、だから身のために忘れる訳。忘れるのは避けられないよ。
だけど、気がついたのは,昔話っていうのはそうやって個人が忘れてしまったことを,日本人の民族の記憶として覚えておいてくれるんじゃないですか?
昔話ってみんなが知ってるよね。ですから日本人の集合的な記憶と言ってもいい。

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