哲学とか美学の方で形式意志って言葉がある。自分はこういう形でありたいという意志、内的な意志。「自分はこういう形でありたい」という意志。生きてるものとか、芸術作品についても言えるんですけどね。形式美という言葉がある。僕はその言葉を知っていたの、活字では。
でも目の前で見せられたのは初めて。ほんとに衝撃を受けた。
後で、植物学やっている友達に話したら、そんなの当たり前だって。秋になって桜の枝落としやるけど翌年柳にはならないだろうって。そうだよね。遺伝子とか言うでしょう。僕は文学者だからそんな言葉は使わない。みんな形式意志をもっている。生きているものは、みんな形式意志を持っている。
自分はこういう形でありたい。という意志を持ってる。
樅の木でさえはっきりした形式意志持っているんだから、人間の子どもたちはみんな形式意志持ってるよ。“自分はこういう姿でありたいという気持ち”みんなあると思うよ。
それを信じてやることがとても大事なんじゃないか、と思う。
木を育てるにはね、もうひとつ日本では盆栽って言うやり方があるよね。あれは木の枝を人間が紐で引っ張って、好きな形にするでしょう。あれは無理してんのよ。人間を育てるには、僕は盆栽じゃない方がいいと思う。人間を育てるには、樅の木のように育てたらいいよ。
子どもはみんなちゃんとした形になりたいと思っているんだということは、信じてやっていいんじゃないか、生きているんだから。
でも、ほったらかしといていいとも思わないです。
子どもはまだ苗木なんだから、小さい木だから、添え木が必要。
じゃあ子どもにとっての添え木とは何だろうか?
子どもにとっての添え木とは、三つの自覚が必要なんじゃないか?
一つは「自分が愛されている」という思い。
もう一つは「自分が信頼されているんだ」という思い。
もう一つは「自分の価値が認められている」という思い。
その三つの思いが、ティーンエイジャーぐらいの時(だいたい一八・九歳くらいの間)子どもの中に育っていけば、後はやっていくよ。
じゃあ誰に愛されたらいいのか、っていうと一番大事なのは親。それからいつも世話してくれる大人、先輩とかね。自分の周りの人達から愛されている、信頼されてる、価値を認められている、その自覚さえあれば、後は樅の木に任せていいんじゃないか。変になろうと思っている子なんかいない。みんなちゃんとやっていこうと思っている。それを信じてやって。
ここから先が問題だよ。どうやったら子どもが、愛されているという自覚を持つことができるか。それは大人の問題だよね。


◆シンデレラの行ったり来たりは、思春期の子どもの行動
もう一つ聞いてもらいたい。「シンデレラ」はグリム童話では、三回舞踏会に行っています。
「21番灰かぶり」。「灰かぶり」は、英語の表現で、ドイツ語で「シンデレラ」。
グリムではこういう話です。

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