と 言って宮城県では終わるんですね。
「こんで、えんつこもんつこ、さけた」って言うのは意味がないんですけど、「これでおとぎ話は終わ
りだよ 」というあいさつです。結末句といいます。
昔話っておとぎ話でしょ。ですから「馬がなんで三本足で走ったんだ」って問い詰められても困るで
しょ。だから、語り終わってから「ここまではおとぎ話ですよ。あたしの責任じゃありませんよ」っ
て、昔話の語り手はみんなガードを張るわけです。
地域によって違うんです。今のは、宮城県でしょう。岩手県へ行ったら「どっとはらい」。秋田県へ行
ったら「どっぺんぱらいのぷう」。いろいろです。
外国にもあります。世界中みんな昔話もっています。昔話ってぜんぶ嘘話ですから、どの国でも
この結末句あるんです。ヨーロッパでも色々あるんです。ヨーロッパで人気があるのは、たとえば「王
子とその貧しい娘は めでたく結婚しました。死んでいなければまだ生きているでしょう」
あたりまえだね。最後 笑わしてぱっと終わる。意味はありません。意味は考えない方がいいです。

◆昔話の文法
それはいいですけど、今の話聞いていてどんな感じがしました?
最初に馬方が一人で馬を一頭連れて登場したでしょう。皆さん頭の中で馬方の姿を想像したんじゃ
ない?その次に山姥が一人で登場したでしょ。山姥の姿もなんとなく想像したでしょ?
そのことが大事なんです。
昔話を子どもたちに聞かせる教育的な意味。昔話って言葉でしょ。
言葉で耳から聞いたものを頭の中で目に描くんだよね 想像するってことだよね。 
そこで言葉から絵への変換がありますね。その変換する力を養うのが大事なんです。
昔話を子どもに聞かせる教育的意味は、言葉で耳から聞いたものを頭で描くわけだよね、想像するってことは。そこで言葉から絵への変換があります。その変換する力を養うことが大事なんです。
“お話を子どもに聞かせる教育的意味は、言葉から絵への変換する力を養うこと” 
それがお話を聞かせる大事な教育的意味です。教育学ではこれを想像力という言い方する。
で、その時ですね、今皆さん聞いたように、馬方が一人で登場してくれたから、馬方の姿が頭の中で想像できたんじゃない?どうでしょう。これ馬方がいきなり九人ぞろぞろ出てきたら、頭の中で描いていられないね。それじゃあ だめなんです。だから一人で登場させる。
「昔話は人物を孤立的に語る」これ一番の基本です。
今馬方が一人だったね。山姥も一人だったでしょ。敵も一人 最後にいい隠れ家だと思って飛び込んだ小屋があったでしょ。あれも一軒だったと思わない?大道具も孤立的。“昔話は、人物・大道具・小道具を孤立的に語る”というとても大事な一番基本の文法です。
     例はいくらでもあるんですけど、たとえば「浦島太郎」 かめの背中に乗って竜宮城へ行ったっていうんでしょ。あの時一人で行ったでしょ。弟を連れて行ったって話あまり聞かない。
「ヘンゼルとグレーテル」どう?森の中に捨てられました。二人っきりです。二人で孤立的です。
それで森の中をさまよっていったら、お菓子の家があった。あのお菓子の家も一軒だと思わない?そ
うでしょ?お菓子の家の団地があったっていう言い方しないよ。しかもあそこに住んでいる魔女ひと
りじゃないですか。一人、これも孤立的。
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