それから「歩いていくと大きな森がありました」グリムだったら「暗い森がありました」。それ以上のこといってないよね。その森が何でできていたのか。杉だったのか何だったのかって言わないね。大きな森それしか言わない。それが昔話。“実態は語らない、写実はしない、リアルには語らない”と言ってもいいよね。リアルには語らない。血が流れたなんて語らない。さっきの馬の足切った場面は、実態を語ったらすさまじい場面だと思わない?馬の足切るって言ったって あの太い足切るんだから大変だよ。「鉈で何度も何度もひっぱたいて血があたりに飛び散って、馬が返り血で真っ赤になりました。」それ言ったら昔話ではないよ。講談ならいいよ、講談はわりとそういうこと語る。凄まじいくらいです。
でも昔話ではぜったい語りません、それが誤解されているんです。

だから今の場面なんかはね、大人は馬の足切ったなんて言うといろんなこと想像して血が流れただろうなと思う、馬が苦しんだだろうなと思う、それで残酷だっていうわけです。
だけど子どもに語ってご覧なさい。子どもはね、馬があそこで「三本足になって、がったがったと走っていきました」というと げたげた笑うよ。全然受け取り方違うんです。子どもと大人の感じ方の違い、とても大事だよこれ。“子どもと大人は感じ方が違う”
是非覚えといてください。子どもにとってはね、馬の足が切られたらどうなるかなんて考えもしない。ただそうじゃなくて馬って四本足でしょ、四本足ってことは知っているのよ。それが三本になっても走ったらこれはおかしいわけ。そういうふうに受け取る。大人と全く違うんです。
この時、大人は子どもに影響を及ぼさない方がいいね。ここで大人がわきでね「まあ馬がかわいそうに。なんて痛かったでしょうね」なんて言うと、子どもは学習しちゃうんです、そこで「これってかわいそうなことなのか」って思うわけ。そして子どもの感じ方を捨てます。大人になっちゃうんです。大人子どもにしない方がいいよ。子どもは子どもがいいよ。子どもと大人は感じ方が違うと言うことを是非覚えといてください。いろんな場面に出ますから。
じゃあそういう残酷な場面がなぜ出てくるのかっていうとですね、こういうことなんですよ、
今の話でいえばね途中で馬の足切られたり、食われたりしているでしょ、もちろん子どもだって大変なことだと思いますよ。だけど最後に主人公が幸せになりました。つまり山姥をやっつけた。勝ったよね。勝ったらいいんです。
最後に主人公が幸せになったり、勝ったりすれば、子どもにとっては、それでもういいんです。。子どもはお話を聞いたり読んだりする時、自分を主人公と同化していませんか?主人公に重ね合わせているよね。そういう子どもにとって途中でいろんなことあって怖いです。だけど最後に主人公が幸せになれば万歳です。最後に主人公がどうなるか、これが問題なんです。
では最後の幸せは何かってね、世界中の昔話を広く調べたことあるんだけど、三つの幸せに集約されました。
ひとつは「主人公の身の安全」、ひとつは「主人公の富の獲得」、ひとつは「結婚」、その三つね。
もちろん複合はありますよ、富と結婚とかね。さっきの馬方は「身の安全」だけでしたね。
最後に主人公が、その三つの何かを獲得すれば子どもはそれで安心なんです。
昔話っていうのは、実態は語らないっていうことが全く知られてないものですから昔話は残酷だっていう意見が強くなっているんです。この頃とても強くなっています。
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